[アビスルートの功罪]③
『なぁナナシ、こないだ飲み屋に寄ったら、店の姉ちゃんが言うわけよ。「〈アビスルート〉ってご存知ですか。手口がクールですよね」だってさ。俺も空気読んで、適当に合いの手入れたりなんかしてな』
ナナシは相づちすら打たない。
『口が裂けても言えないだろ。「あんたは表側しか見てないから、カッコいいなどとぬかせるんだ。本性は狡猾でえげつないんだぜ」なーんてな』
おのずとフィクサーSの自画自賛めいた独白になる。
『不法を告発された会社だってあんなもの、氷山の一角にすぎない。なぜなら報道されてないアストロン商事も、〝ハッキングの被害者〟なのだから』
ナナシは馬耳東風で、聖カトレア女学院の資料を読みふけっている。アストロン商事の情報とは比べ物にならないほど分厚い。
『〈虚数輪廻〉の射程範囲は手広く、多岐にわたる企業につばをつけている。にもかかわらず公開処刑を食らったところと、おとがめなしのところがあるのはなぜか。答えは単純明快だ。口止め料を支払ったか否か』
フィクサーSの弁舌は熱を帯びてきた。
『おたくの脱法行為、黙認してあげようか。ただし相応の対価を払ってくれればね。交渉決裂なら、誠に遺憾ながら公表しちゃいま~す』
矢継ぎ早にしゃべって息切れしたのだろう。一拍の間をあけた。
『〈虚数輪廻〉と裏取引する会社側には二つの選択肢しかない。泣き寝入りして示談金を工面するか、断固拒否してイメージダウン必至の恥部を白日のもとにさらされるか。第三セクターからの政治献金が発覚し、芋づる式に辞任へ追いこまれた汚職議員の往生際の悪さには、抱腹絶倒させてもらったがね』
ナナシはイスのひじかけを、リズミカルに指でたたきだした。
『マスコミが真相を嗅ぎつけるのは、当面先だろう。警察でさえ犯人逮捕に至る根拠をつかみあぐねているのだから。ざまあないな。確たる足跡すら残さず情報をかすめ取る手腕には、俺も敬服するよ』
「ふんふんふふ ふんふんふふ ふんふんふふふーんふふーん」
とうとう歌いだすナナシ。
メロディはベートベンの交響曲第九番第四楽章『歓喜の歌』だ。
『ひたすら胸に秘めておくのもストレスだよな。たまに洗いざらいぶちまけたくならないか。今なら「王様の耳はロバの耳」と井戸へ叫ぶ少年に共感できるよ。けど現代じゃ情報は武器になる。根も葉もない風聞が飛び交うくらいだ。どうせ吐露すんなら、いっそのことパパラッチに高額で売るというのも一考の余地ありかもしれない――ってナナシ、俺の話聞いてる!?』
ナナシは小気味いいハミングを邪魔され、眉をひそめる。
「あんたのうんちくはあくびが出る。聞く耳を持つに値しない。少しの間だけでも静かにしていられないのか。おしゃべり星人め」
『恩をあだで返す、とはこのことだな。いや、飼い犬に手を噛まれる、が適切か?』
自問自答するフィクサーSを、ナナシは眼中に入れない。
それどころか唐突に、
「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」
と資料の文字を順繰りに指さし始めた。
用紙には三つの単語、〈アルタイル〉、〈ベガ〉、〈デネブ〉と書かれている。
『おまえ、何してんの?』
「見て分からないか。陥落させるゲートの選定だ」
『サウンドオンリーの通信だぞ。視認できるものか。勇姿を見せつけたかったら、カメラ機能をオンにしやがれ』
「こ、断る。貴様の間抜け面など拝みたくない」
ナナシは狼狽した。おまけに映像がオフになってるか、念入りに調べている。
『出たよ、対人恐怖症の内弁慶が。案ずるな。仕事終わりにお兄さんが、とっておきのお土産持って訪ねてやろうじゃないか。首を洗って待ってるといい』
「ぜ、絶対に来るなよ。顔を出したら、ただじゃおかないぞ」
『引きこもりくん、具体的に何してくれるのかなぁ?』
ナナシには手に取るように想像できた。
ろくでなしフィクサーSが部下をいたぶって、愉悦に浸る姿が。
不服なのでナナシが黙秘していると、
『見守れなくて残念だけれど、選別の儀式を続けてくれたまえよ、ナナシくん』
「はっ、そうだ。こうしちゃいられん。八割無駄口のあんたにしては、有益な指摘だったな。褒めて遣わす」
『おまえな……』
何を言っても徒労とさじを投げたのか、フィクサーSは深く追及しない。
ナナシが再び紙の上で、指を行ったり来たりさせる。
「て・ん・の・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」
先刻の続きからスタートした結果、〈デネブ〉で指が止まった。
『おーい、どこを落とすことにしたんだ』
フィクサーSを意に介さず、ナナシは指を再度用紙にはわせる。
「な・の・な・の・な」
指が指し示したのは――
「〈ベガ〉だな。うむ。薄々そんな予感はしていた」
『「予感がした」ね。そりゃあピンとくるだろうよ。だって茶番の出来レースだもの。故意に〈ベガ〉を選んだんだろうが』
「な、難癖つけるな。厳正なる占いの果てにたどり着いた、偶然の産物だ」
ナナシはムキになって異を唱えた。
『あー、はいはい。おまえがイカサマまでやらかすからには、何かしら合理的な理由があるんだろうよ。畑違い人の俺にゃ、皆目見当つかないけどな。いいさ。ドンパチはおまえの領分だ。俺は尻拭いをする監督役として、傍観に徹するよ』
「ふんっ。高みの見物とは、いいご身分だな」
ナナシは毒づきながらキーボードをたたき始めた。
ナナシは相づちすら打たない。
『口が裂けても言えないだろ。「あんたは表側しか見てないから、カッコいいなどとぬかせるんだ。本性は狡猾でえげつないんだぜ」なーんてな』
おのずとフィクサーSの自画自賛めいた独白になる。
『不法を告発された会社だってあんなもの、氷山の一角にすぎない。なぜなら報道されてないアストロン商事も、〝ハッキングの被害者〟なのだから』
ナナシは馬耳東風で、聖カトレア女学院の資料を読みふけっている。アストロン商事の情報とは比べ物にならないほど分厚い。
『〈虚数輪廻〉の射程範囲は手広く、多岐にわたる企業につばをつけている。にもかかわらず公開処刑を食らったところと、おとがめなしのところがあるのはなぜか。答えは単純明快だ。口止め料を支払ったか否か』
フィクサーSの弁舌は熱を帯びてきた。
『おたくの脱法行為、黙認してあげようか。ただし相応の対価を払ってくれればね。交渉決裂なら、誠に遺憾ながら公表しちゃいま~す』
矢継ぎ早にしゃべって息切れしたのだろう。一拍の間をあけた。
『〈虚数輪廻〉と裏取引する会社側には二つの選択肢しかない。泣き寝入りして示談金を工面するか、断固拒否してイメージダウン必至の恥部を白日のもとにさらされるか。第三セクターからの政治献金が発覚し、芋づる式に辞任へ追いこまれた汚職議員の往生際の悪さには、抱腹絶倒させてもらったがね』
ナナシはイスのひじかけを、リズミカルに指でたたきだした。
『マスコミが真相を嗅ぎつけるのは、当面先だろう。警察でさえ犯人逮捕に至る根拠をつかみあぐねているのだから。ざまあないな。確たる足跡すら残さず情報をかすめ取る手腕には、俺も敬服するよ』
「ふんふんふふ ふんふんふふ ふんふんふふふーんふふーん」
とうとう歌いだすナナシ。
メロディはベートベンの交響曲第九番第四楽章『歓喜の歌』だ。
『ひたすら胸に秘めておくのもストレスだよな。たまに洗いざらいぶちまけたくならないか。今なら「王様の耳はロバの耳」と井戸へ叫ぶ少年に共感できるよ。けど現代じゃ情報は武器になる。根も葉もない風聞が飛び交うくらいだ。どうせ吐露すんなら、いっそのことパパラッチに高額で売るというのも一考の余地ありかもしれない――ってナナシ、俺の話聞いてる!?』
ナナシは小気味いいハミングを邪魔され、眉をひそめる。
「あんたのうんちくはあくびが出る。聞く耳を持つに値しない。少しの間だけでも静かにしていられないのか。おしゃべり星人め」
『恩をあだで返す、とはこのことだな。いや、飼い犬に手を噛まれる、が適切か?』
自問自答するフィクサーSを、ナナシは眼中に入れない。
それどころか唐突に、
「ど・れ・に・し・よ・う・か・な」
と資料の文字を順繰りに指さし始めた。
用紙には三つの単語、〈アルタイル〉、〈ベガ〉、〈デネブ〉と書かれている。
『おまえ、何してんの?』
「見て分からないか。陥落させるゲートの選定だ」
『サウンドオンリーの通信だぞ。視認できるものか。勇姿を見せつけたかったら、カメラ機能をオンにしやがれ』
「こ、断る。貴様の間抜け面など拝みたくない」
ナナシは狼狽した。おまけに映像がオフになってるか、念入りに調べている。
『出たよ、対人恐怖症の内弁慶が。案ずるな。仕事終わりにお兄さんが、とっておきのお土産持って訪ねてやろうじゃないか。首を洗って待ってるといい』
「ぜ、絶対に来るなよ。顔を出したら、ただじゃおかないぞ」
『引きこもりくん、具体的に何してくれるのかなぁ?』
ナナシには手に取るように想像できた。
ろくでなしフィクサーSが部下をいたぶって、愉悦に浸る姿が。
不服なのでナナシが黙秘していると、
『見守れなくて残念だけれど、選別の儀式を続けてくれたまえよ、ナナシくん』
「はっ、そうだ。こうしちゃいられん。八割無駄口のあんたにしては、有益な指摘だったな。褒めて遣わす」
『おまえな……』
何を言っても徒労とさじを投げたのか、フィクサーSは深く追及しない。
ナナシが再び紙の上で、指を行ったり来たりさせる。
「て・ん・の・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」
先刻の続きからスタートした結果、〈デネブ〉で指が止まった。
『おーい、どこを落とすことにしたんだ』
フィクサーSを意に介さず、ナナシは指を再度用紙にはわせる。
「な・の・な・の・な」
指が指し示したのは――
「〈ベガ〉だな。うむ。薄々そんな予感はしていた」
『「予感がした」ね。そりゃあピンとくるだろうよ。だって茶番の出来レースだもの。故意に〈ベガ〉を選んだんだろうが』
「な、難癖つけるな。厳正なる占いの果てにたどり着いた、偶然の産物だ」
ナナシはムキになって異を唱えた。
『あー、はいはい。おまえがイカサマまでやらかすからには、何かしら合理的な理由があるんだろうよ。畑違い人の俺にゃ、皆目見当つかないけどな。いいさ。ドンパチはおまえの領分だ。俺は尻拭いをする監督役として、傍観に徹するよ』
「ふんっ。高みの見物とは、いいご身分だな」
ナナシは毒づきながらキーボードをたたき始めた。
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〔続く〕