[アビスルートの功罪]⑧
ミカが号令を発した。
「は、はひっ」
ミカの剣幕に気圧されつつも、ノエルは命令に従う。ケーブルを引っこ抜き、外部との接触を完璧に絶った。
「どうなの、ノエル」
「お、お待ちください。あっ……。間一髪セーフです!!」
ノートパソコンがスタンドアローン状態になる代わり、敵からの不正アクセスも途切れた。ネット切断があと十秒遅れれば、制御はノエルの手を離れただろう。
立て続けにミカも、デスクトップPCに挿入されたLANコネクタを抜き放つ。
「グッド。わたくしもインターネットから落ちることにします」
「どうしてですか。お姉さまのパソコンはまだ無事なのに」
「二人でタッグを組んでも歯が立ちませんでした。わたくし一人ではなぶり殺しにされるのが目に見えています。惜しむらくは、ハッキングでオタク風情に一矢報いられなかったことね。結局賊の姿は透明なまま。一方的にぶしつけな目線でなめ回され、体中を穢されたかのようで、虫ずが走ります」
「お姉さまの神聖な御身を視姦するなど、なんたる不敬。万死に値するぞ、キモオタブタ野郎。百ぺん殺しても、殺し足りない。この恨み、晴らさでおくべきか~」
目が血走ったノエルは、五寸釘を打ちこみそうな勢いで液晶画面をぶったたいた。
「こらこら、物に八つ当たりしないの。あなたの愛機なのでしょう」
「う……お見苦しい失態をしてしまいました。じ、自粛します」
ノエルは取ってつけたようにノートパソコンをなでさすった。
「よくできました」
ミカが小学校教師然と、後輩をなだめる。
「実際のところ、バトルに関しては痛恨の極みじゃないかもしれませんね。敵の最終目標は、わたくしたちを
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「うっわ、敵前逃亡かよ。がっかりだな」
ナナシはリクライニングチェアに体を預け、イスの背を倒した。
寝そべる体勢になって、ぼんやりと天井を仰ぐ。
「女って、なんでこうも飽き性なんだ。あ~、違うな。『引き際がいい』とか『切り替え早い』って言わなくちゃいけないのか。まったく、あいつってばマジで口やかましい。『女性に敵視されるぞ』とか、いっぱしのフェミニスト気取っちゃってさ」
独りぼっちの部屋でエア上司に、文句をたれていた。
「まったく。何にもまして不愉快なのが、僕にくだらない雑用押しつけたことだ。〝計画通り〟とはいえ、かつて〈ノーネーム〉の二つ名をとどろかせた僕を当て馬に抜擢なんて、頭にくる。音響機材を始めとしてこの部屋、コンサートホール並みに改装してやろうか」
ナナシは三モニターの左端、ログアウト状態の『フィクサーS』アイコンを眺めた。
「お膳立てしてやったんだから失敗するなよ、アホ大将」
√ √ √ √ √
「たとえパソコンを支配されても、機密情報なんて出てきやしませんけどね。わたくしたちのハードディスクには、後ろめたいデータなど保管しておりませんので」
「けど返す返すも忌まわしいです。やはり不届きなハッカー風情に、あたしの手で正義の鉄槌を下してやりたかった」
ノエルは悔しげに吐き捨てた。
ミカがノエルとおそろいで、ハートをあしらったシュシュに指を触れる。
「〝これ〟を使い、〈アビスルート〉用にフルカスタムを施したOSならば実現したかもしれません。ただしノエル、軽率に『正義』などと吹聴するものではないわ。まるでちんけな悪党みたいでしょう。聖カトレア女学院に通うレディとして、自らの品位は保たねば」
「以後気をつけます、お姉さま」
「はい。大変結構な心がけです」
「あ、ミカお姉さま。今後といえば、この先どうしますか」
「どう、と言いますと?」
オウム返しされたノエルはカチューシャの端についたハートの飾りをつまんで、取り外した。着脱自在な仕様らしい。
「〈アビスルート〉を引退するならなおのこと、続けるにしてもデータの扱いをどうするか、です。今回情報漏洩こそ免れたけど、敵はあたしたちに的を絞ってきましたよね。今まで通りのやり方を貫けば、いずれハッキングのボロが出るんじゃないかと」
「ふむ、一理ありますね」
ミカもシュシュに付属するハートを外した。
弓なりの部分を九十度ひねると、真っ二つに割れる。ハートの真ん中に挿入部の端子が現れ、あっという間にUSBメモリへ変貌した。
「秘密をどこに封じておくか。隠蔽と利便性の悩ましいジレンマ――」
「ほほぅ、髪留めに扮して肌身離さず持ち歩くとはね。ネット上をしらみつぶしにしても発見できないわけだ。『髪は女の命』とは言い得て妙だな」
コンピュータルームに低音ボイスが響いた。
彼女たちとは面識ない青年が、扉を開けて佇立している。寝ぐせのついた波打つくせっ毛、気だるげなタレ目に、ノーネクタイのスーツ。いかにも常識に疎い、といういでたちだ。
「だ、誰ですか、あなた。ノックもなしに」
ノエルが非難がましいまなざしを、無遠慮に戸口へ向けた。不審人物から守るべく、ミカの前方に立ちはだかる。
「あぁ、こりゃ失敬」
だらしない男は思い出したように扉をたたく。とうに対面を果たしてるので、手遅れだけど。これでチャラとばかりに、ドアを閉めきった。
閉鎖された空間コンピュータルームには、ミカとノエル、乱入者の三名が居残る。
「新任の先生でしょうか」
ミカがノエルの背中越しに話しかけた。ノエルの陰に隠れてUSBメモリを装飾品に復元。シュシュを外して手首につけ直し、たなごころ側にハートをはめこむ。
「うんにゃ。俺は学校関係者じゃない。単なる部外者さ」
「警備員さんや先生方が、よく通してくださいましたね」
「徹頭徹尾うろんげだったけど、身分を明かしたら不承不承OKしてくれた。後ろ盾さまさま、って感じかな」
ずぼらな男はミカの当てつけが通じているのかいないのか、にへらと相貌を緩めた。
「身分、とおっしゃいますと?」
「ああっと、申し遅れたね。俺はこういうもんだよ」
男が懐に手を入れ、長方形の物体を取り出す。二つ折りになっているらしく、掲げると長さが倍になった。
ミカとノエルの表情がそろって凍りつく。
男が提示したのは、バッジつきの警察手帳だった。
「一応、ネット犯罪全般を取り締まる刑事でね。名前は
我に返ったノエルは、掌中にあるハート型のUSBメモリをとっさに窓の外へ投げ捨てようと試みた。
「やめなさいノエル……やるだけ無駄です」
ミカが諦観たっぷりにノエルを制止させた。
ノエルは投球モーションのまま固まる。
装飾具に模したUSBメモリは完全防水のうえ、耐衝撃性もずば抜けており、高層ビル屋上から落下させても壊れない特殊製品だ。神経質なまでのデータ破損対策が、この場面では裏目に出ている。
「潔いね。俺もドブをさらったりするのは勘弁だし、ご協力感謝します」
宍戸はわざとらしく警察式の敬礼をした。場がしらけたところで二人のそばまで寄り、証拠の詰まった記憶媒体を接収する。
「お姉さまの残り香を嗅いだりしたら、八つ裂きだかんな、おっさん」
ノエルは宍戸をにらみ据え、敵意をむき出しにした。
「や、やらないって、そんなこと」
と言いつつも、シュシュをチラ見する宍戸。
「やるな」と厳命されれば、かえってやりたくなるのが人間の悲しいサガだ。
「てゆうか君さ、いくらなんでも『おっさん』はひどくないかい。アラサーには違いないけど俺、まだ二十代独身だよ」
「シャラップ。貴様の加齢臭がお姉さまに伝染する」
辛辣な切り返しで、宍戸は涙目になった。二の腕を掲げて鼻に寄せ、くんくんする。
「おっかしいな。加齢臭なんてしないはずだけど。知らぬは当事者ばかりなり、とかか」
「ノエル、慎みなさい。いくら不本意でも奥ゆかしさをかなぐり捨ててはいけませんよ。事実だったにせよ相手に伝えていいこと、悪いことがあるのですから」
ミカとしてはフォローのつもりでも、宍戸にとっては追い打ちと同義だった。
眉毛を八の字にし、見るからにしょぼくれている。
「誰かに似てると思ったら、あのこましゃくれた坊主か。取り扱い注意で生意気盛りなところなんかそっくり。厄日だ。ハッカーって人種にかかわると、ろくなことがない」
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「はっくしょん」
ナナシは盛大にくしゃみした。
「なんだ、風邪か。あいつが僕をこき使うせいだな。法外な治療費ふんだくらないと」
ティッシュで鼻をかみ、丸めて捨てた。
速攻でお掃除ロボットが稼働し、部屋を清掃する。
ナナシは何ごともなかったかのごとく、無為なカロリー摂取――間食兼晩御飯の、ポッキーかじりにいそしんだ。
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〔続く〕